饒舌な日々

 私は色々と書く。自分のことについて書く。饒舌に語る。果たして誰に向けてい書いている訳でもない。後になって読み返すこともほとんどしない。書いてアップした直後に、若干の修正を加えることもあるが、大体悪くなるからやらない。私は、書くことが好きなのだろう。日記が好きである。なんでもかんでも思い通りに書く。自在な感覚を覚えるのである。饒舌に何かを語ることは、それ自体、心地良い。

 

 私は色々と書く。だが、本当に大事なことは書かない。固有名詞を出さない。私は印象を書きつける。私は引用が好きである。私は脚注というのが好きである。思考が立体的になるからである。私は、エッセイというのはあまり好きではない。むしろ現代詩の方が好きである。私の日本語はあまり日本語らしくない。英文和訳のような日本語である。その不自然さは、私の英語が和文英訳のような英語であるのと似ている。私の思考は日本語と英語の間を往来する運動体として記述される。リービ英雄さんのこと。或いは、マーク・ピーターセンさんのこと。小泉八雲のこと。ドナルド・キーンさんのこと。

 

 日本精神など最早ないことは当たり前である。何もないことを先ず認めねばならない。無いことを自覚することは難しい。あったことがなく、無いことが寧ろ自然である。無くなったことを自覚する自意識は過剰である。無いものを出そうとするから無理がある。昨日、教え子に会った。「成し遂げて死ぬ」というテーマで今を生きていることを知らされた。私は、何も言えなかった。日本精神は取り戻すことなどできるはずがない。たった一人で信仰心を持つことができないのと同じように不可能である。私は彼に言うべきだった。成し遂げるとは何か。それを判定するのは自己ではなく他者である。では他者は何処に居るのか。成し遂げたかどうかを判定する他者は絶対的な他者である。精神的な他者である。超越的な他者を信じることなく、成し遂げることはできない、あるいはそれは自己欺瞞である。だが、私はそれは言えなかった。また、私は、成し遂げずとも人は死ぬことをよく考えねばならない。だから為し遂げなくてもよいということではない。成し遂げるとは、使命のことだろう。成し遂げた途端に死ぬことは、彼にとっての幸福論なのだろう。成し遂げることが人生の終着点であり、そこに行き着いた瞬間に死が到来すること。後悔したくないのだろう。そういえば分らないでもない。成し遂げる、というから癪に障る。傲慢だと思う。後悔だけはしたくない。それもまた傲慢であると思うが、消極的なだけましだ。

 

 後悔だけはしたくない、の方が、厭らしい気もする。成し遂げて死ぬ、とは、だがやはり、それも大衆的な感情のような気がする。本人は自己完結だと思って居るだろうが、私の目からすれば、扇動された、靡いた、湧きたてられた感情のように思う。

 

 私が臆病なだけだろうか。いわゆる右翼という人たちの心理は、どこまでも死に向かっている。それは、植え付けられた感情ではなく、死を賭しても尚守りたいという、どこまでも清潔な思想に見える。私が暗いだけだろうか。だが、私は、それについてとやかく言いたい。違う、と。それはそうなのだが、果たして、それは違うと。精神は尊重するが、行動は尊重できない。私は日和見だろうか。つまり、私は思想と行動の一直線なことが、恐ろしいのである。

 

 また、それは対話を拒否しているようである。

 

 一仕事終えて家に帰って来た。本来なら土曜日までにする仕事を引き延ばして、本来なら月曜日にやる仕事を土曜日にやっていて、明らかに私は仕事の仕事が下手である。母がコロナになったから、必要な物資を届けて来た。家にパソコンを持って帰ればよかった。想像力の不足だ。そうだ。想像力、実行、修正。このサイクル。私の上司はそのサイクルを生活のエンジンとして回していると聞いた。やはり、Kさんは凄い人だ。

 

 ポルノグラフィティを聴いている。中学生の頃、ベスト盤が出た。通称「青盤」「赤盤」というやつだ。私はこのベスト盤が大好きだった。もしかしたら、ベスト盤の中で一番好きかもしれない。次は2PACの『Greatest Hits』だろうか。とてもワクワクする。全部口遊める。歌詞が素晴らしい。ドラムも素晴らしい。メロディアスだ。幅が広い。透き通っている。声の伸びが素晴らしい。

 

 躁状態の時は、音楽がゆっくり聞こえる。鬱状態の時は、音楽を聴く気にならない。音楽は健康のバロメーターである。

 

 色々思いつく限り書いた。まだ書ける。何を書こうと思っていたのか。そう。書くことの浄化作用(purification)について。聞くより、読むより、話し、書くことの方が、或いは、演奏すること、物語ることの方が、心地良い。心地良さを求めることがとても大切であると思う。三木清は『人生論ノート』のどこかで、近代人の幸福についてこう述べている。

 

良心の義務と幸福の要求とを対立的に考えるのは近代的リゴリズムである。これに反して私は考える。今日の良心とは幸福の要求である、と。社会、階級、人類、等々、あらゆるものの名において人間的な幸福の要求が抹殺されようとしている場合、幸福の要求ほど良心的なものがあるであろうか。(p.17-18)

 

 一番信用する近現代の知識人を挙げろと言われたら、真っ先に、三木清を挙げる。私は三木清が大好きである。彼の全集を買おうか迷っている。文庫で手に入るのは大体買った。評伝もいくつか買った。だが、そんなことより、やはり、三木清の文章から滲み出ている人柄に惚れたのだろう。あまりそう人とは出会えない。大切な人である。

 

 題名のつけようがない。