渋谷に行こう

     千葉雅也さんの影響をモロに受けていると感じる。固有名詞を出してPVを稼ぎたいわけではない。このブログは収益化していない。もちろん閲覧数が増えるのは嬉しいが。そんな話をしていたのではない。つまり、千葉雅也という固有名詞を出したならば、それについて弁明せねばならないと思った次第である。私は千葉雅也のファンである。Twitterもよく読む。著作物も何点か読んだ。共著も多い。『勉強の哲学』を読んで思い出したのは、自分の予備校時代、私は地元の中堅国公立コースに在籍していて、当時の東大クラスにいた子達はきっとこんなことを考えながら勉強していたのかと想像して、それは「地頭が違う」という表現もあながち嘘ではない、これは自助努力の概念が違うのだから、と思った。住む世界が違う。私の予備校時代のテーマは克己であった。だから志望校に受かるほどの偏差値の伸びは無かったのだと思う。私の愚かさは、目的的思考の足りなさと、現実認識の甘さにあった。何を今更十年以上前のことをと思われるかもしれないが、その後の人生を振り返っても、あの頃の愚かさは維持されていると思う。『勉強の哲学』を読んで感じた事は、自己破壊的な勉強をしなければ、愚かさは維持され続け、過ちは繰り返されるという事だ。これは更に個人的な事情であるが、克己をテーマに生きてきた結果として双極性障害を患ったと感じる。克己心とはニーチェの言葉だ。私はそれを愚直に信じて、破壊的な反省と、非現実的な計画と、その必然としての自己嫌悪に陥った。このループこそ勉強によって「破壊」し、また「変身」しなければならないものである。私の愚直さは変わらないだろう。愚かさと真面目さ。それは私の長所であり短所であり、始まりであり終わりである。私は愚かしく、直向きに生きていきたいと願うから、それは基本なのだ。問題は、何を信じるかという事だ。

 

    私は克己心を信じた。それは究極的な自己愛である。そして失敗した。病気になった。だから、私は自己愛ではない別の何かを信じたいと思う。自己愛は自己愛として、それはそれとして隅にでも置いといて、別のものを探したい。別のものを探したい。それは危険な兆候かもしれない。私は本質的に自己啓発セミナーや新興宗教や鼠講に嵌る人と同じであると思う。だから、私は彼らを軽蔑してはならない、なぜならそれは自己を軽蔑することになり、結果自己嫌悪に陥ると予想できるから。自己嫌悪こそ、私が避けるべき結果である。その非生産的な精神状態と不自然な生活様式は、原因ではなく結果であるがゆえに、立て直すにも年単位で時間がかかる。言いたい事は、私は何かに嵌まりやすいということ、ナイーブに何かを信じたいということ(だから、私に響くのは、知識人の言葉ではなく宗教家の言葉であり、一部の文学者、言語学者、美学者、心理学者の言葉である)である。それが見つかれば安心なのだ。私は安心したい。

 

    私は安心したい。懐疑派ではない。安心派である。疑いを心に懐くことに慣れていない。そのお陰で酷い目にあった。私は、素朴に素直にナイーブに、実直に真面目に直向きに、率直に簡潔に着実に、行動し表現し感受し思考し実践したい。今並べた様な言葉を聞くと私は安心する。だから、保守の方が安心するのはひとえに漢字の並びのせいだ。保ち守るのだ。伝統文化、慣例、常識、家族、国家、人間。何でも良いが、そういった本来脆弱なものを守り保つのが保守だろう。数学家や科学者が保守的に映るのは、法に則っているからである。私が最も信用できない人間は、一切の参考文献のないネット記事や噂ばなしばかり読んで、それを手前勝手に理解して得意になっている人間である。ということは、おおよそ全ての人間である。自分である。あらゆる事柄を参照して調べて比較検討して考察する人間などいない。それこそ懐疑派である。私が安心を得るのは、知的であるかどうかではなく、好きな音楽や映画や本がマッチしているかどうかだ。いや、全然マッチしていなくても良い。私が安心を得るのは、その人が何が好きかが察せられることだ。何が好きで嫌いかが分かれば、安心する。その人の価値観が部分的にでも分かれば、多少は安心する。或いは、その人の書いた文章を読むと、より安心する。その人と色々と話してみれば安心する。その人と食事をすれば安心する。とにかく私は安心したい。私は私自身に安心を覚えないのは、何よりもまず病気のせいであるが、その病気の原因の一つとなっている生活様式の崩壊もあるが、なによりもこの克己心なのだ。私の中の、もっと良くなろう、これではダメだ、まだまだ自分を追い詰めようとする、その態度。森鴎外の引用。

 

 

森鴎外は、明治42年の小文で「シュトレーバーという言葉」を、明治44年の『妄想』では「フォルシュングという言葉」を、それぞれ問題にする。鴎外は、ドイツ語のStreberという言葉は努力家、勉強家を意味するが、同時に嘲るという意も帯びている。学問界、芸術界に地位を得ようと思って骨を折る人物をドイツではStreberという。日本にもStreberが多くいるが、日本語にはStreberに相当する言葉がない。それは日本人がStreberを卑しむという思想を有していないからである、とする。また、鴎外は、ドイツ語のForschungについて、日本では学問の雰囲気がなく、Forschungという意味の日本語も出来ていない。Forschungには、研究なんていうぼんやりした語は実際役に立たない、と断じた(『生きること学ぶこと』pp.211-214、pp.214-218)。

https://www.shimonoseki-cu.ac.jp/pub/rijicho/room/rijicho_20140421.html

 

 

    私は予備校時代、既にStreberであった。そして、今よりもっと単純な精神を有していたと思う。今よりもっと見通しが甘かった。そして、今よりもっと従順で元気で明るく朗らかだった。今の私は、当時の私よりも複雑な精神を有している。見通しが立たないことに不安を怯える程度には見通しの大切さ、段取りや準備や目的意識の大切さは理解している。そして、気難しく、疲れていて、不機嫌である。私は、そう考えれば、森鴎外に登場してもらったのは悪いが、Streberの頃の方がずっと愛すべき人間だったのである。日本語には直向きに努力して成功を収める人間を嘲るような文化が無い、というのは、当時より100年経っても変わらない。やっかみや冷笑主義は蔓延っている。Forschungどころではなく、従来の「研究」さえ、とかくその中心であるべき大学では等閑になっていると聞く。『文系崩壊』とも言われて久しい。だが、崩壊という割には危機感が何も無い。崩壊を嘆く人も少ない。まるで最初から何も無かった様だ。驕る者久しからずで、日本人は元々そういう貴族文化は嫌いなのだろう。

 

    何の話をしていたのか。つまり、私は、昔に戻りたいのは体、肉体、体力、見た目であって中身ではないということだ。またそれは出来ない相談だ。見た目も昔と同じにはならないだろう。筋肉をつける事は可能である。体重を落とすことも可能である。可能であるが故に、欲望の対象になると、中島義道は言っていた。ラカンの引用なのだろうか。分からないがその通りだと思う。

 

    私は痩せたいのではなく、昔に戻りたいのでもなく、格好良くなりたい、健康になりたい、体を軽くしたい、身軽になりたい、渋谷に行きたい!

 

    東京に5年もいて一度も渋谷に行ったことがないというのも特殊な気がする。というか、東京の地理を知りたい。そのためにも、まず渋谷に行かねばならない。ファッション。渋谷。それは当たり前な取り合わせかもしれない。

 

    渋谷に行こう。