とにかく勉強せよ

 自分の悪癖を改めたいと思い、自分について反省をした結果、様々な言葉が浮かび上がった。先延ばし癖。逃避主義。優柔不断。過去に捕らわれ、やるべきことを見失う。その結果としての事なかれ主義、或いは、無気力、無関心、無感動。このような破壊的な反省を続けた結果、自己に対する明確な嫌悪感が日々感じられるようになった。自己分析という名の自己喪失。または自己卑下、自己憐憫、自己不信、自己破壊、自暴自棄――――辞書の「自己」の欄を読むと、すべて自分のことについて書かれているように感じる。私は、世界から切り離されて、他者との交流を失い、成熟の機会を喪失して、実存の真空的空間にただ独り残されて、自己との戯れに興じているのだろうか。

 

 私は自己について延々と考えてきた。否、「考える」というのはもっと近代的な方法論だ。私は決して「考え」てはいなかった。私はずっと思っていた。悩んでいた。苦しんでいた。同じところをぐるぐると巡っていた。「考える」というのは、合理的に考えるということだ。エクセル管理とは、まさに「考える」ための便利なツールである。私は、考えたくなかった。考えることを止めて、思い続けていた。私は、はてなブログTwitterに入り浸った。―――「思いは言葉に」というはてなブログのモットーは、当時の自分のモットーでもあったのだ。

 

 私はいつも何事かを思っていた。どんなことを思っていたのだろう。何を期待し、願い、祈っていたのだろう。思い続けていた。迷い続けていた。後悔し、絶望し、自暴自棄に陥ってた。私が理性的であったのは、すべて他人に対してだけである。他人にはいくらでも理性を保つことができる。「助言ほど簡単なことはない」というギリシャの諺を思い出す。何をするべきかを指摘することくらい簡単なことはないのだ。

 

 それでも、私は思いを止めることをしなかった。私が自殺をしなかった理由は、思いが尽きることがなかったからだ。この思いをどうにかして言葉にしたいと思っていたからだ。読書は、そのための有効な手段になった。私のテーマは、自分で意識はしていなかったが、今になって振り返れば、はてなブログのテーマそのものずばり「思いを言葉に」であった。そして、いつもそれは失敗した。思いには、言葉にできる思いと、言葉にならない思いの二つがあるのだと知った。言葉になる思いとは、喜びであり、嬉しさであり、決意や励ましや感謝である。他人と共有可能な思いは、言葉にすることが容易である。言葉にならない思いとは、他人と共有したくない思いである。プライベートな、秘密の感情である。だからこそ、用語を使いたくなるのだろう。「希死念慮」「自殺願望」といった言葉も、自分自身の思いを隠すための心理学用語である。「死にたい」という言葉は、あまりにも不吉で、不気味なのだ。また、身近な人に聞かせるのが申し訳なくなる。共有したくない感情である。それは内向的な思いである。内向的な思いは、私の心の中を蝕む。蚕の幼虫が桑の葉を食むイメージである。さわさわさわさわ、私の心の花は、その幼虫に全部食べられてしまう。その虫も、やがて蛹になり、蝶になるのだろうか。ここにおいて、私は詩を学ぶ必要を感じる。詩の言葉は、本来、言葉にならない思いを、詩学の理論とその実践の反復によって、その技能が熟達され、洗練され、より鮮明に、リアルに、イメージを喚起させるからである

 

 思いが言葉にならず、私は欲求不満であった。言葉にできない思いを、どうにかして消化/昇華したく、何度も何度も書いた。私は何度も書いた。書きまくった。(文字通り、手を動かした)読むことは書くための手段であったから、いくら本を買っても一向に読まず、本のタイトルや、概略や、章立てのタイトルだけでよかった。私は答えが欲しかったのではない。出来合いの答えでは絶対に満足しなかっただろう。私は、私自身の言葉を見つけて、この思いにケリをつけたかった。執念深く、自分を追い詰めた。隅から隅まで自分の内部を点検した。気になる点はすべて拾い上げて、検閲係に回した。事実、私は、「発見」と題されたノートを作り、内的生活のほとんどすべてを記述し、それをブログにまとめ、自己理解に努めた。

 

 テーマは自己であった。それを理解し、分析し、体系化して、自己の正体を突き止めること。自分が何者であるかを知ること。自分がどういう物の見方をして、どんな人間に出会い、何から影響を与えられたのか。何度も自分史を書いた。それは自然、家族史を知るきっかけにもなった。または郷土について考えることにもなった。自分を取り巻く環境、すなわち、家族、故郷、文化、時代、国家について考えることになった。(私は自然、政治的立場としては保守になった。或いは、保守思想というものと相性が良かった。西部邁さんもこの頃に知った。)私は、当初のテーマからどんどん興味関心が離れていくことに躊躇した。テーマが壮大すぎて手に負えなくなってきた。

 

 私は、言葉にならない思い、言葉にしたくない思い、他人と共有できない思いを抱えていた。私の思いは止めどなく溢れた。書けば書くほど、感情は反復され、増幅された。現代思想的に言えば「解像度」が上がった。複雑な感情が、複雑な感情として記述できるようになった。分かりにくいものを分かりにくさとして、その全体性を引き受けることができるようになった。私は、とにかく、執念深くなった。自己に対する冷徹な、冷酷な眼差しを持った。私は自分(内)を見つめる冷たい眼を、世界(外)に向けるようになった。私は皮肉や風刺やナンセンスな笑いが好きになった。東京に住んでいることが影響しているのだろう。地元ではこんなことになったことはない。私は、記憶を遡る限り、少なくとも地元では、もっとあたたかい心の持ち主だった、はずだ。

 

    紙の日記が続かずに「はてなブログ」は継続できて、「あすけん」(食事管理アプリ)が続かずにエクセルでの自作シート管理は継続できる。私には、継続しやすいものとそうでないものがある。主観的な物は共有可能なツールが、客観的な物は自分で作る操作可能なツールが有効なようだ

 

    継続する事が価値である。坂口恭平さんの本を援用すれば、「手を動かす」こと。練習する事鍛錬する事、止めない事が大事だ。三日坊主は当然である。休んでまた再開すればいい。失敗/成功の判断は、長く継続できるかどうか、それだけにかかっている。(坂口さん曰く、2週間継続できるものは一生継続できるらしい。それならはてなブログとエクセル管理は一生できるかもしれない。)

 

    継続したい事を、思いつく限り挙げておきたい。勉強。私は素朴に言って勉強が好きだ。語学の勉強が好きだ。理科や社会の勉強も好きだ。どんな物でも勉強するのは好きである。入学試験の勉強や、免許・資格取得の勉強、勉強と名の付くものは大体好きである。新しいことを知り、それを誰かに教えるのが好きなのだろう。勉強という営みが好きなのだ。勉強には有限な範囲がある。限られた時間と空間を、多様なツールを活用しながら、理論と実践の往還運動を反復していくうちに、身体に知識と技能が染み込んでいく。知のスパイラル構造である。私は、その循環によって、知識と記憶が相互リファレンスの関係を構築されるのを目標にしているのである。映画でよくある、聖書の一節を聞いて、その後をスラスラ暗誦してみせて、応答する場面。私はあれが好きだ。暗誦するとは、知識が身についているということを端的に示すものであるからだ。

 

    では、一体私は何が勉強したいのだろう。ドラム。エクセル。料理。心理学。英語。近現代史DIY。ファッション。詩学アメリカ文学。美術史。もっと挙げていこう。教育学。受験産業。会社の仕組み。会計学経営学社会学。住んでいる町の歴史と文化。社会経済的構造。マネーリテラシー哲学史。世界文学。様々な用語辞典を読破したい。

 

    分かった。要は、古今東西の森羅万象について「勉強」したい訳だ。アマチュアの好奇心である。プロになりたいのではない。仕事はプロっぽくやれればそれに越したことはないが。専門人になりたいのではない。色んなことを知りたい。興味・関心、意欲・態度という学校の通知表の欄はいつも二重丸だったと思う。今もそうなのだろう。

 

    知識欲。知的好奇心、探究心。それを満足させられれば自分の人生を満足とする。それは、東浩紀のいうところの「動物化」なのだと思う。大塚英志のいう「物語消費」なのだろう。

 

    恐らく、知識を蓄積するというよりも、知識と肉体を一体化させることに私は関心がある。方法が体に染み付くこと。入れ替え可能ではないものになること。信仰と生活が一体化するように、知識と身体が一体化すること。私が目指すそのような合一化を目的とした勉強である。

 

    とにかく、勉強しよう。