礼儀について(「どうでも良い」改題)

    匿名だからこそ言えることもある。その最もありふれた感情が、「死にたい」だと思う。本名を公開して、更には、顔写真や学歴や出身地を載せて発言する場合ではなく(そう考えると、昔の本の背表紙には、作家の住所や電話番号まで載せていたのだから、今では信じられない。)、takaony(ブログの管理者の名前)という仮名を使って発言するから、その意味では、それは社会人としての私の意見でもなく、私の中のどちらかと言えば無意識の部分が出ているのだと思う。匿名性とは無意識のことだ。そこには暴力や性や死といった何かしら不吉なもの、不気味なものが多分に含まれている。私は、それが本当の自分だと言いたいのではない。本音は自分でも分からないものだ。

 

    私は、日常的に、死にたい、と思う。それは不自然なことだとは思う。死にたいと思うのが不自然なのではなく、死にたいと思わせるような人間関係や社会構造や生活様式が、不自然、というか非人間的なのだと思う。私は、死にたいと思う時、つまり、人間的になるのだと信じる。人間として生きたいからこそ、こんな非人間的な状態を脱したいと願い、死を願うのだと思う。では、私の考える人間的生活とは何か。ここではない何処かに、或いは特定の時代や場所において、それは実現されているのだろうか。或いは、死にたいと願うようなことのなかった頃を思い出してみることから始めるべきだろうか。

 

    私が死にたくなかった頃。それはやはり実家にいた頃だ。私の生家は広島県のF市にある。父母の実家もその市内にあり、私のルーツはF市だと断じていい。幼少期、何度か引っ越しをしたが、6歳から19歳までの学童期から青年前期にかけては、父が建てた家に住んだ。だから、私の記憶はあの家に染み付いている。私は愛知県内の教員養成系大学に進学し、家を離れた。卒業後は愛知県内の公立高校の英語教師を9ヶ月間やり、その後東京に移った。

 

    東京に最初に移り住んだのは弟である。2011年の4月のことだ。その半年後、父と母が引っ越した。私が来たのは、2018年の5月だったからかなり差がある。私は、最初、療養のために実家に移り住んだ。私は、東京に来てから2021年までの丸3年間、仕事以外のほとんど全ての時間を睡眠に充てていた。週に30時間から50時間、バイトを掛け持ちした時期もあったが、一年の内の三分のニはベッドの上で過ごしていただろう。思い出がないはずである。それくらい眠ることができた。三年寝太郎とは私のことである。

 

    四年目に正社員の仕事に就いた。まだ二年目である。今でも尚、仕事のない時間や、日曜祝日は寝て過ごしてしまう。私は人生を浪費しているのだろう。私が惰眠を貪っている間、世間は忙しなく動き続け、私の知人や友人は家族を持ち、子供を持ち、家を買い、車を買い、二人目が生まれたり、今度は家族同士の付き合いを始めたり、独身者は独身者で、何かしら創作活動を継続したり、推しを見つけては物語を消費したり、山に行き川に行き海に行き、釣りをしたりバーベキューをしたり、或いは街に行き、人と会い、別れ、何かしらを体験して、思い出を作っていたらしい。私はその一部をSNSを通して知った。私は、単純に羨ましかった。私は自分が虚しくなった。寂しいと思った。つまらないと思った。自分が退屈だと思った。魅力的でないと思った。もう、どうでもいいとも思った。彼らとの距離は永遠に縮まらないのだと観念した。もう、他人と比較するのは止めようと思った。自分なりの人生を生き、老いて、死ぬしか無いのだと悟った。私は結婚や仕事の充実や家族や趣味や健康や、そういう華々しい言葉から遠ざかるようになった。私は世間から隠れて生きるようになった。

 

   また死にたくなってきた。自殺願望が高い人は自殺率が高いらしい。当たり前であるように思われるか、或いは、意外な驚きなのか。死にたい死にたいと言うやつに限って死なない、という通説の無効性を、自殺研究の統計データは証明しているそうだ。私は、統計的に言えば、危険なゾーンにいるのだろう。自殺願望が高いと自覚している。まだ、その実行に移る段階には来ていない。ただ願うのみだ。明日目が覚めなければどんなに良いか、そう思わない夜はなかったように思う。朝が来て、今日は楽しいことがある、色んなことができる、あれもこれもしよう、計画を立てよう、とウキウキした記憶が無い。およそこの5年間、私は、死にたかったといえば言い過ぎだが、控え目に言っても、楽しくなかった、ウキウキしなかった。

 

    楽しくない5年間だった。(2015年から2021年の間。内訳は、大学院修士課程2年間、高校教師9ヶ月、療養6ヶ月、塾講師2年9ヶ月、)つまり、25歳から30歳の青年後期を、つまらない、面白くない、興醒めした、退屈なものとして解釈している。生きていなくても良かったとさえ思う。その眼で、2015年以前のことを振り返れば、大して生きていてもいなくても良かったのかもしれない、と思う。取り立てて人の役に立った訳でもない。何かを成し遂げた訳でもない。見通しも暗く、いつもその場凌ぎで、ただ浮かれていただけな気がする。ただ、今と違って純粋さがあった。素直さ、可愛げがあった。今はただ沈んでいるだけだ。また孤独に苛まれることもなかった。友達も多かった。家族も居た。祖父母も元気だった。今、祖母が一人広島にいる。父はすっかり元気がない。母一人が元気に振る舞っている。弟の家族は元気そうだ。子供も産まれた。私は、丸5年間、死にたい声と闘い、まだその闘いは続いている。自己否定、というか、自己存在の否定、自己実現の反対概念としての自殺願望である。自己破壊である。私はそれに勝利する時、何を得るのだろうか。自殺しない心を手に入れるのだろうか。

 

    もうどうでもいい。どうにでもなれ。自殺したければすれば良い。何度か試してもみた。だが死に切れなかった。全然本気ではなかったからだ。私はその大事な局面でさえ、踏ん切りがつかない。えいや、と一歩前に踏み込むことを恐れる。死ぬことを恐れる。躊躇う。その躊躇いは、生きることへの躊躇いと不貞腐れと同じ程度である。一生懸命生きている者だけが自殺することができる。弱い私は、死なない自分の不甲斐なさを呪いながら、せいぜい過食行動で己の寿命を縮めるくらいしかできない。リストカットを試みようとした事がない。私は痛みを恐れる。私はそれほど大胆に死なない。私は恐らく食べ過ぎて死ぬだろう。

 

    だから過食衝動とは自殺願望の表れなのだ。過食行動は、安楽死の様なものかもしれない。痛みのない死。少なくとも一方で食欲という本能を満たすことはできる。寿命を縮めるという意味での、生への抵抗である。だが、恐らく行き着く先は、病気による死であろう。私は早く病気になりたいのだ。病気なって死にたいのだ。痛くない病気になって、痛みなく死にたい。誰も敢えて痛みを求める者はいない。死とは痛みからの解放でもある。その意味では救いである。生きている限り痛みは続くだろうが、死者に痛みはないだろう。

 

    ペインクリニックという新しい病院があるらしい。治療ではなく痛みを取り除く手立てを講じる医院らしい。私が必要なのは、その様なものだ。私が恐れるのは、死ぬまでの間に到来するであろう、心身への痛みである。ストレスである。負荷である。死ぬまで「死にたい」と思い続けながら生きること、その事自体の痛さである。生きることの痛みである。生きることの痛みをとってくれる医者は、普通の医者ではない。宗教者はかつてその役割を担っていた。今、私に必要なのは医療ではなく信仰であり、改善や修正ではなく、解放や救いである。一刻も早く解放してほしいからである。ちまちまと日々を修正するような心理的、時間的、経済的余裕はもう残されていない。一刻も早く救い出してほしい。今すぐに。

 

    仕事がどうなろうが知ったことではない。俺は俺自身が心配だ。他人の家がどうなろうが、その家の子供がどうなろうが、知ったことではない、どうでもいい!そんなことはどうでもいい!いや、どんなことも、私自身の死に比して、等しくどうでもいい。

 

     もうどうでもいい。どうでもいい。 どうでもいい。しょうもない。くだらない。

 

    くだらい。どうでもいい。しょうもない。東京に来たのが間違いだった。あのまま愛知のアパートで首を吊って死なば良かった。そうすれば少なくともこの5年間の無意味な苦しみは味合わずに済んだ訳だ。

 

    無意味な苦しみ。全く無意味ではなかっただろうが、自分がそこに意味を見出せないのだから、周りがいくら説得しても、私の認知が歪んでいるために適切な解釈を斥けてしまう。

 

    もう、ここまで書いてしまって、やはり匿名でよかったとつくづく思う。

 

    また、読み返してみて思うのは、死にたさが相対的に減っているということだ。死にたさが減るとは、生きたさが増えている訳ではない。どうでも良さが、生死の価値を優っている。どうでも良さ。どっちらけ。だらしなさ。多分このまま明日を迎えれば、仕事にならない。どうでも良さとは、開き直りではなく、そんな美しいものではなく、破壊的な、どこまでも破壊的な気分だ。虚無感とも違う。どうでもいい。どこまでも、どうでもいい。無気力というよりも、どんな対象にも固有の価値を認めないという立場のことだ。だからどうだというのか。どうでもいい。

 

    どうでもいい。明日の仕事。健康記録。どうでもいい。音楽。映画。読書。どうでもいい。どうなっても構わない。誰が死のうが生きようが、どうでもいい。

 

    無責任になるということだ。いや、それは今の状況が不自由なんだと思う。何の見返りもないのに、なんでそんなにしてやらないといけないのか分からない。どうでもいい。もう、どうでもいい。どうなっても構わない。どうなろうが知ったこっちゃない。俺には関係ない。お前らがどうなろうが、俺は気にしない。

 

    どうでもいい。そんなことは俺にとってどうでもいいことだ。実際、お前らは俺のことがどうでもいいのだろう。なぜ、俺のことを気にかけないで、俺がお前らのことを気にかけてやらねばならないのか。ギブ・アンド・テイクの原則を知らないのか。どうでもいい、とは、つまり、まずお前らが先に俺を切ったという前提がある。だが、今となってはそんなこともどうでもいい。もう遅過ぎる。

 

    日本政府などどうでもいい。政治などどうでもいい。健康などどうでもいい。仕事などどうでもいい。人間関係などどうでもいい。家族などどうでもいい。友達なんて、今やここに、誰一人いない。社会など、世間など、他人などどうでもいい。つまらない。どうでもいいことしかやらない。他人などどうでもいい。

 

    どうでもいい。どうでもいい。適当でいい。本気でやるべきでない。他人など本気で扱うべきでない。信用ならない。

 

    どうでもいい。基本的にどうでもいいことばかりである。何が大切なのか。分からない。約束を守ることは人間関係を保つ上で大切である。だが、私は、他人をどうでもいいと思っている。だから、恐らくここにおいて、礼儀作法こそが大切になる。バレないことが大事である。常識的な、道徳的な振る舞いこそが大事である。内心が大事ではない。また、それは本来的に「どうでもいい」ことだと思っているから、仮にその本音に行動を一致させれば、私はすぐに嫌われるだろう。除け者にされるだろう。それは、どうでも良くない事態になる。

 

    どうでもいい。他人などどうでもいい。本気で相手にぶつかることなど絶対にできない。

 

    明日の仕事はどうでもいい。

    友人がドタキャンした。どうでもいい。

    また暴食した。どうでもいい。

    また自殺願望が来た。どうでもいい。

    

    どうにも儘ならない。どうでもいい、仕方ない、あるものはあるのだ、無いものは無い、できないものはできない。どうでもいい。離れたい。どうでもいい。

 

「どうでも良い」

 

〈意義素〉

内容がどうであっても関わらない様

 

〈類語・類義語・言い換え・同義語〉

無関心・どちらでも構わない・どちらでも結構・何でも良い・どうでも良い・どうだって良い・良きに計らえ・興味ない

 

    「どうでも良い」とは、他者や事態への介入不可能性への言及であり、選択の放棄であり、興味・関心の喪失である。肯定でも否定でもない。或いは、「良きに計らえ」というような、全面的な信頼関係を表すこともある。

 

    「どうでも良い」とは、主体性の放棄である。対立軸の消失である。関係性の崩壊である。「愛の反意語は無関心である」と言ったのはマザーテレサだったか。そうだとしたら、どうでも良さとは、キリスト教、特にカトリック精神の否定なんだろうか。

 

    では、私は一体何を「どうでも良い」「良きに計らえ」と思っているのか。自分に関わることの全てについて。つまり、自己への無関心である。 自己の自己に対する関係の破壊である。実存的な生き方の否定である。

 

    俺よ。どうでも良い。好きにしろ。好きにしていい。

 

    また読み直してみた。自暴自棄になっているのがよく分かる。自暴自棄になりたいんだと思う。狂いたいのだと思う。馬鹿なYouTuberの様に、騒ぎたいのだろうか。どうでも良い、とは、冷たい言葉だ。「そんなことはどうでも良い」「もはや、どうでも良くなった」「誰がどうしようが私にとってはどうでも良いことだ」「太ろうが、痩せようが、金を貯めようが、失おうが、健康になろうが、病気のままだろうが、もうどうでも良い。」それが今の心境だ。

 

    今の心境。あらゆる事がどうでも良い。言うなれば、己が命だけである。

 

    不貞腐れている。つまらない。下らない。面白くも何とも無い。どうでも良いわ。こんな人生。こんな生活。こんな東京の暮らしなど、どうでも良い。

 

    どうでも良い。どうなっても構わない。普通、この言葉は条件文で使う。私はどうなっても構わない、この子が助かるなら、という様に。或いは、もはやこの子は助からずに死んでしまった。生きている事がどうでも良くなった、という様に、結果文としても使う。

 

    私は、どんな条件、結果を感じているのか。私の思う「どうでも良さ」とは、恐らく、結果的なものだが、そこにはどんな条件があって、それが満たされなかったはずなのだ。

 

    それが明確にならない。元々明確なものでは無いのかもしれない。自分に対する期待や根本的信頼感というのが失われたのだろう。それで、どうでも良くなっているのだろう。

 

    どうでも良いことをどうでも良くないもの、大切なものとして扱っているという実践が大切だ。礼儀が大事だ。

 

    どうでも良い。投げやりで無責任な気分。無関心。キリスト教的な愛の不在。

 

    もはや、この投稿自体削除した方がいい気がする。こんな文章はそれこそどうでも良いことだ。早く仕事に行け。

 

    死にたいと思っても良い。生きたいと思っても良い。感情はあるもので、無いものにできない。感情はどうでも良い。意志は脆弱である。できなくてすぐに不貞腐れる。意志もどうでも良いのだ。よく生きねばならない。だが、そういう高尚な義務感も安定しない。欲望に流され、習慣によって汚される。どうでも良くなってくる。感情も、意志も、使命感や義務感も、全てどうでも良くなってしまった後、私に残されたのは、外側である。表象の方である。他人にどう思われるのかということである。自分の内面がどうでも良くなったのだ。関係性の強度だけが問題である。言うなれば、見た目が大事なのだ。準備している事が大事なのだ。事実が大事なのだ。建前が大事なのだ。

 

    主観が大事なのでは無い。思いが大事なのでは無い。主観を捨て去るのではなく、主観に頼らないということだ。主観から抜け出ることはできないのだ。だから、客観の方を信じる。

 

    礼儀作法だけを守る。それに決めた。