思いは思いのままに

 本日、2022年10月18日16時50分をもって、ブログ『Abyss』を永久凍結することをお知らせする。もう、何度止めて、何度再開したか忘れてしまった。恐らく4回目か5回目辺りだろう。だが、『Abyss』というブログは、二度と再開しない。次に、ブログをやるとすれば、もっと健康的なものにすると思う。収益化できるようなブログにするということだ。

 

 私へ。二度と帰ってくるなよ。思いを言葉に、ではない。思いはそのままに。思い出すときに思い出せばいい。言葉にしなくてもいい。思いは思いのまま。忘れることは悪いことではない。忘れたい記憶ばかり、お前は思い出そうとしている。無意識に任せよ。思い出そうとするな。思い出したくないことは、言葉にしなくてもいいのだ。ドストエフスキーでも読め。太宰でも読め。そういう暗い感情を、まだお前は手に余るのだから。思いは思いのままに。

 

 さよなら。

 


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自己への祈り

 色々なことを考える。色々なことに悩む。だが、それはすべてどうでもいいことである。私は悩んだふりをするだけだ。困ったふりをするだけ。申し訳なさそうにするだけ。全部偽物の感情である。本物の感情を、私はとっくの昔に失ってしまったのだ。本物の感情。本物の気持ち。本当の気持ちを蔑ろにして、そんな気持ちは青臭いものだ、世間知らずだからだ、経験や知識が足りないからだと、自分自身で軽蔑する。それが一番健康に悪いのだ。本当の気持ちを、私は忘れかけていた。

 

 本当の気持ちを思い出すためにこのブログを始めたのではなかったか。仕事が辛い、退屈だ、つまらないというのは、次元の低い感情であり、気分である。そんなものを書き記しても、尚一層、つまらない。本当の気持ちは何か。私は、感情が壊れてしまったらしい。心が死んでしまったようだ。何も感じられない。私は、同じことをずっと呟いている。私の心は死んでしまった。私は、もう二度と感動することはないだろう。「死にたい」と呟く。それは、死を覚悟しているからではない。考えることが苦痛であるからでもない。心は既に死んでしまっている。「死にたい」と呟くのは、感情が無いことの証である。悲しみもないのだ。怒りもないのだ。ただ、苦しいと思うばかりだ。「死にたい」というのは、相当に深刻な状態だ。これが習慣化しているということは、つまり、2018年から2022年の5年間は、恐ろしいまでに異常な生活であった。それは生活ではない。私は、それを「生活」とは呼ばない――――――「牢獄」「地下室」「ゾンビ」「生きた屍」「機械人間」。そう、私はまさに魂の無い人間、機械人間だった。ゾンビだった。地下室の牢獄に閉じ込められた狂人のようだった!*1

 

 私は、本音で生きていきたい。私は、もう、二度とこのような生活を送りたくない。私は、もう二度と、「死にたい」と呟きたくない。私は二度と、こんな投稿をしたくない。私は、二度と、このブログに帰ってきたくない。

 

 このブログは、私の亡骸が、彷徨う魂を鎮めるためにあるようなものだ。私は、もう過去を思い出すことを止めたい。魂よ、どうか安らかにお眠りください。過ちは繰り返しませんから*2

 

 

 

 

 

*1:私は、この5年間、何度も何度も、自分史を書いては止め、書いては止めた。履歴書を何回も書いた。またそうしないと丸っきり思い出せないのだ。無意識の抑圧という仮説があながち嘘でもないのは、私自身鬱病の当事者であるからだ。本当に時間が止まってしまったように感じる。今が何年何月何日で、なぜ今自分がここにいるのかさっぱり見当がつかない。私の28歳から32歳は、何も変わっていない。時間が止まっているからだ。私は、この止まった時計をどうにかして動かさねばならない。それはもう、自然に動くことを止めてしまっているからだ。私は、毎日、気合いで、止まった時計のぜんまいをまくように、生きていかねばならない。

*2:「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」が本当らしい。広島の原爆ドームの記念碑の言葉である。

健康的な生活を求めて

    朝早く起きる。6時に起きる。歩く。(4000歩)食事を作る。ご飯を炊いて、味噌汁を作る。洗濯機を回す。新聞を買いに行く。新聞を読む。ご飯を食べる。コーヒーを飲む。煙草を吸う。部屋の掃除をする。音楽をかける。洗濯物を干す。

 

    仕事場に歩いて行く(3000歩)。掃除をする。書類の整理をする。軽い事務仕事を終わらせる。その日の段取りを立てる。一度帰宅する。

 

    昼ご飯を作る。夕食の用意もする。スーパーに行く。日用品を買う。洗濯物をしまう。2時前までに職場に着く。職場までは歩いて行く。

 

   仕事をする。段取り通りやる。働き過ぎない。提出物を様式通りやる。細々とした連絡もすぐにやる。必ず定時に帰る。歩いて帰る(3000歩)

 

    帰宅後はすぐにお風呂に入る。本を読む。映画を観る。健康記録をエクセルでつける。24時までには眠る。

 

    これを繰り返す。反復する。趣味を楽しむとか、仕事を充実するとか、友達と遊ぶとか、そういう事は一切考えない。とにかく、繰り返し、繰り返し、反復、反復する。

 

   楽しかろうがつまらなかろうが、とにかく、とにかく、ルーティンに執着する。

健康開眼

 私の生活は、健康を害するもので溢れかえっている。まず何からやめるべきか。スマホ。パソコン。このブログもやり過ぎれば毒になる。私は立場上、生徒にスマホやゲームの使い方を指導する立場にいるが、私の言葉が説得力を持たないのは、私自身が「スマホ脳」だからである。パソコンの方がまだマシだと思う。私はスマホでネット検索をしないようにしたい。まずは、スマホ、何が何でもスマホから離れたい。

 

 健康を害する人、物(商品)、事を挙げたい。まず両親。これは残酷な事実だ。両親のことを考えるだけで憂鬱になってしまう。昔の友人もそうだ。彼らは、少なくとも今の私にとっては、懐かしさを思い起こさせる以上に、嫉妬と羨望の対象でしかない。私は、今の自分を惨めに思わせるような人達と会いたくない。その意味では、弟と一番会いたくないかもしれない。過去の私をよく知っている人に会いたくない。まだ、心の傷は癒えていないどころか、寧ろ、傷口は広がっているような気さえする。

 

 私の健康を害する物の筆頭はスマホである。その次が本である。私の頭は情報が入りすぎている。全く整理されていない。私は、いわゆる「物知り」であるかもしれない。色々なことを知っている。或いは、知識を収集する方法に習熟した。それは自信を持ってもいい。だが、収集する方法論と、整理する方法論は異なる。私は、知識を整理する方法を身に付ける必要がある。生半可な知識ほど害悪なものはない。だから、こうまとめてもいい。私の健康を害する最も大きなものは、生半可な知識である、と。

 

 私の健康を害する「事」は、明らかに、仕事と病気である。私の仕事は学習塾の教室長である。私の病気は双極性障害である。ワーク・ライフ・バランスということが宣伝されている。私の場合は、教室長業務と双極性障害のバランスである。この仕事に就いたのは2021年の4月である。1年と半年しか経っていない。この仕事の急所は、講習である。夏期、冬期、春期の3回の講習の売り上げの多寡である。私の前職は、一応、高校教師であるが、あまりにも短すぎて経験とは言えないくらいだ。非正規雇用のほうがずっと長かった。私は、仕事について何かを言うための資格を持っていない。私は、仕事に追われている。仕事が嫌になる。仕事のことを考えなかった日はない。仕事が嫌いなのに、仕事ばかりしている。他にやることが無いからだ。病気について。自分が双極性障害と診断されたのは、今年の8月になってである。私は、全然健康的に仕事ができていない。否、私の健康水準は、高校1年生辺りを境にどんどん落ちている。それは、単純なことであるが、食事と運動と睡眠のバランスが取れていないということだ。私の健康を害する「事」は、生活のほとんど全てと言って良い。睡眠、食事、運動、仕事、病気、読書、音楽や映画の鑑賞、ブログ。生活が病的である。健康を求めるならば、私は生活の全領域に渡って大きく変化、修正、改善を求める必要がある。

 

    他人の事は、正直、どうでもいいではないか。今は自分の健康を大切に守るべきだ。

 

    私はこうして自分の内側に引き篭もっている。自分のことに汲々として、目つきが鋭くなってくる。

 

    私は健康になりたい。ただそれだけだ。目的がハッキリとした。私の今生きる目的は、己の生命を、心身の健康を、いやもっと正直に言えば、心の健康は度外視していい、肉体の健康だけを求める。頭と体の健康。心は今置き去りにしていい。

 

ライフ、或いは「生」について

    私は健康になりたい。生活習慣を改善したいのではない。私は健康になりたい。健康を求める。健康が欲しい。私は健康になりたい。何度でもいう。忘れそうだからだ。私は健康になりたい。

 

    私は健康になりたい。私はその為に他の事を捨てる覚悟がある。私はお金持ちになりたいのではない。豊かに暮らしたいのでもない。仕事を一生懸命頑張りたいのでもない。欲望は一つだけにする。自分の健康。自分の心と体(脳も体の内の一つだ)の健全さを保ちたい。私は私の心と体を守りたい。大切にしたい。保護したい。慈愛が足りない。私の心と体は、精神と肉体は、配慮が足りていない。私は、自分を守り、優しくして、ケアする必要がある。私は、私の命を守り養っていきたい。

 

    ライフ(life)という言葉は、生命と生活の両方を兼ね備えた便利な言葉だ。私は私のライフを守りたい。

 

"life" の訳語を一覧で上げてみる。

生命、命、生存、存命、生(せい)、肉体の死を超越した魂、生命、救い、新生、再生、(呼びかけ)愛しい人、最も大切な貴重なもの、個人の命、生涯、寿命、(無生物の)耐用期間、生活(状態)、暮らし、人生、人事、世間、この世、実社会の生活、社会活動、伝記、言行録、元気、精力、活気、生気、活気を与えるもの、原動力、新鮮さ、食品の鮮度、生き物、実物、本物、

 

 私は「ライフ」を守りたい。命も、魂も、生活も、元気も、活気を与えるものも、守りたい。それをすべて統合した言葉としての「ライフ」とは、「生の哲学」の言うところの「生」であろうと思われる。

 

 

健康のために

 自分の健康に役立つかどうか。物事の選択する規準ができた。自分の健康に役立つなら、それを優先する。自分の健康に役立たないのならば、それを拒否し、通り過ぎ、無視し、忘れる。自分の健康を害するような人や物や事には、最大の「否」をつきつける。防衛である。己の健康を防衛せよ。私は、自己の外部よりもずっと多く、自己の内部が、己の健康を蝕み、破壊し、摩耗していることに気が付く。私は、己の健康を保守するためにこそ仕事をしなければならない。

 一つ安心した。私はもう人に気兼ねすることを止める。自分の健康に資するかどうかで、物事の是々非々を判断する。それがまず第一の選択である。

 仕事のために仕事をするのではない。子供のため、親のために仕事をするのではない。世間のために生きるのではない。健康のためだ。極端に思われるかもしれない。だが、今は、それくらいの過剰な健康狂いが必要である。そうでなければならない。

 健康に悪いことはやらない。健康に悪くなりそうなことはやらない。未然に防ぐ。なぜ仕事をためてはならないのか。健康に悪いからだ。心配事が増えるからだ。俺は、きっと嫌な奴になるかもしれない。だが、お人好しは健康に悪いのは分かりきっていることだ。

 もう決めた。仕事に健康を破壊されてたまるか。他人に俺の健康を支配されてたまるか。自殺願望。それは健康にとって最大の敵である。

健康になりたい

    うまくいかない。後手に回っている。頭と体と心のバランスが悪い。朝起きられず、夜眠れない。食事が偏り、運動量が少ない。仕事が溜まって、不安である。プライベートを削らざるを得ない。貯金も目減りしている。焦燥。孤独。諦観。そして自殺念慮。自殺の方が頭をよぎる。東京から脱出したい。ESCAPE FROM TOKYO。そればかり考えている。こんな所に住みたくない。こんな仕事はどうでもいい。無責任。退行。反抗。先延ばし。

 

    まあ、大体こんなところだ。言葉にすると、また同じことの繰り返しをしていることに気が付く。この不快感はなんの新し味もない。またか、という感じ。恐らく私は自殺しない自殺できない、と言ったほうが正確か。人間は不快感では自殺できないようになっている。自殺の統計を見る。鬱病躁鬱病といった精神疾患と自殺死亡率は相関関係が高い。私は、統計的に言って、自殺傾向が相対的に高いグループに分類されるのだろう。

 

 不貞腐れている。どうにでもなれと思っている。仕事が立て込んでいる。仕事は始まっている。時間は私の体調など気にしない。始業時刻は残酷に開始する。どうするのか。やるしかない。根性。気合い。不屈の魂。ファイト。

 

 もう、既に性根尽き果てている。否、こんなブログをやっているくらいだから、頭はまだ働いている。体も動く。昨日深夜、過食してしまった。私は、双極性障害を患っていると同時に、過食症も患っている。挙げていけばきりがない。ニコチン依存症、生活習慣病、軽度の糖尿病、皮膚炎、その他諸々。要するに、不健康であるのだ。それは生活が原因であって、この10年間の生き方が反映されており、まさに自業自得というところだ。頭も体もボロボロで、心が石の様になってしまった。

 

 健康になりたい。金も名誉も要らない。ただ健康になりたい。仕事も休日も趣味も要らない。健康になりたい。ただ、健康になりたい。

 

 朝起きたい。食事に気を付けたい。自分で料理したい。出来合いのものは買わない。外食もしない。酒も飲まない。自分で作りたい。全部自分で作る。料理を覚えたい。外を歩く。筋トレをする。ジムには行かない。筋トレのメニューも自分で作る。自重トレーニングで充分である。別に人に筋肉を見せたい訳でもあるまい。夜眠れるように、朝から夜にかけて、絶えず健康を第一にしながら、時間を送る。本も音楽も映画も、それが健康に資するのかどうかで判断する。健康になりたい。健康が優先である。知識よりも経験よりも仕事よりも友情よりも恋愛よりも、健康が第一である。

 

 とにかく、何が何でも健康になりたい。他のものは捨ててもいい。健康になるかどうか。とにかく健康。それが無ければ、仕事も趣味も友人も何も無い。

 

 健康になる。健康教である。そうだ。まさにこれは宗教的だ。信仰の代わりに健康を見つけたのだろうか。

 

 健康になりたい。